中井の歩み

ページID : 3229

中井町の沿革

大古の中井の形態は、相模湾が大山丹沢山塊の近くまで入り込み、現在の小田原市境に接する曽我山を除き、そのほとんどが海中に没し入江状態にありました。その後、大山丹沢山塊から流出された土砂の沖積作用と海岸線の隆起により形成された土地であり、そこに集落発達の基礎が築かれたものと推定されます。

縄文、弥生文化時代から古代前期にわたり、この地域に人が住んでいたことは、各所に散在する竪穴、横穴群および石器や土器などからも明らかです。

有史以降、奈良平安時代には、すでに相当な集落を構成し、文化もかなり進んでいたことが想像されます(倭名抄による)。平安末期になって、平良文六代の孫中村宗平がこの地に居を構え、広汎な地域(中村はもちろん平塚の土屋、二宮、国府津、酒匂、旧小田原、旧早川、旧片浦、真鶴、湯河原、土肥)を領有し、豪族として土地の開発から文化の発展に寄与したことがうかがわれます。

中村一族の全盛時代は、源頼朝の鎌倉幕府創立を助けた頃で、足利時代に入ると関東管領騒動で扇ガ谷上杉に味方をして、ついに滅亡の運命となり、中村氏に代わって大森氏の領有するところとなりました。

その後100年、戦国時代にいたって、明応4年2月大森氏は北条早雲に倒され、その北条氏も天正18年豊臣秀吉に亡ぼされ、以来徳川家康の支配下となり、その部将大久保氏の領地となりました(但し、井ノ口は米倉氏、境は曲渕氏の知行地として介在していました)。なお、寛永年間一時稲葉氏が、大久保氏に代わってこの地の領主となったが、貞享3年ふたたび大久保氏が戻り、以来明治維新まで続きました。

明治元年、王政復古の大号令が下り、同4年新政府による廃藩置県の断行で、この年7月中井は小田原県に入り、同年11月小田原県の廃止により足柄県に所属しましたが、明治9年、足柄県も廃止になって以後は、神奈川県の所管に移り小田原支庁に所属しました。さらに、明治12年郡区町村編成法により小田原支庁が廃止され、郡村制となり、足柄上郡中村、井ノ口村となりました。

明治17年、比奈窪ほか14カ村(部落)が連合して比奈窪役場を置き、戸長がこれを統べたが明治22年町村制が実施されるにあたって中村、井ノ口村と名実ともに分離し2村として発足、以来、明治41年の合併までそれぞれ独立の自治体としての歩みを続けてきましたが、明治41年4月1日、2カ村が合併して中井村の誕生となりました。

昭和33年12月1日、中井村誕生50年を契機に新しい町として発展を期すため、単独町制をしき中井町となり現在に至っています。

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習課 生涯学習班
〒259-0197
神奈川県足柄上郡中井町比奈窪56
電話番号:0465-81-3907
ファックス:0465-81-5145
お問い合わせフォーム